橋向 美恵子(水輪スタッフ)●2001年4月17日
「『責任をとらせる』…彼女の成長のために」
仕事を上がろうと思ったら、理恵ちゃんがご飯を炊き始めていた。あと火にかけるだけのを忘れていたという。仕方がない、責任をとらせる為に自分で最後までやらせて、知っていて理恵ちゃんに指示しなかったみさ子さんにも最後までつき合わせた。監督不行届の連帯責任だ。これからも何回でも失敗するだろうけれども、とにかく「責任を持ってやる」「失敗に責任をとる」ことを覚えさせないとダメだなと思った。やはり少し厳しくやっていくべきかなと最近少し思っている。彼女の成長のためにもぬるま湯は良くない。自分の心は、少しばかり集中力とリラックスのメリハリが足りなくなっている。ミスがあったり、ボーっとして即、動けなかったりする。風邪気味ということもあるかな。要注意。
●2001年4月21日
「『意識の大学』─いのちの学校─の構想」
昼間にみどりさんから、意識の大学構想の中のひとつの「いのちの学校(仮称)」の構想をきいて、感動のあまり涙が出た。今のワーク&スタディをもっと体系だてて、多くの人が学べるシステム。知識でなく体感で学ぶところ。人は人からしか本当のことは学べない。人と話して、生き様をこの目でしっかりと見て、触れて、言葉以上のものを受け取っていく。年齢なんて関係ない。心遣い、気遣い、気配り、物の考え方、とらえ方、態度、思いやり、澄んだ気の体感、エゴを越える、とらわれを捨てる、執着を離れる、病から学ぶ、人の死に様から学ぶ…。色々思いつくけど、どうやって体系をつくればいいのかな。掃除、洗濯、炊事から始まって、畑やら何やらとミーティングが基本かな。今水輪でやっている、一挙手一投足がそれにつながるのだろう。
●2001年5月9日
「人の中でもできないと」
テキスト打ちをしていたら、半分まで行って爆弾が出て、データがパーになってしまった。一人で夜半までやってたのに…。いいかげん嫌になりながらも、とりあえず気を取り直してやり直す。表面的には何気なく前と同じようにパソコンに向かっているが、内心は嫌でしょうがなくて、集中が少し落ちていた。そんな自分をもう一人の自分が見ている。何で「嫌だ」と思うのか。やることの意味にフォーカスしていないから。ただの作業になっているから。今を生きていないから・・・。何についても言えることだ。今日は、自分が実は手元に全然集中できていないことがよくわかった。自分のやっていることでなく、周りの「人」に気が行ってしまう。しかも、その「人」そのものにフォーカスするのではなく、「どう思っているか」「何を言ってるのか」を非常に気にしている。それは、「自分がどう思われているか」とはちょっと違うと思うけど、何か似たような質の気持ちがあるから人が気になってしまうのだと思う。だから、すぐ人に巻き込まれる。自己に向かっていないから。自己におちついていないから。
座禅の時は人のことが全く気にならないからいい状態になれる。それを人の中でもできないとダメだな。
●2001年5月19日
「『人の輪の中にいる自分」が初めて見えた
きのう夕食の時、研さんが一日の出来事を話してくれている時、突然その場が客観的に見えて、「団欒している食事風景」を感じて、何だか急に涙が出てきた。何てあったかいつながり合ったところにいるんだろうかと初めて思った。人とのつながりを意識してこなかったし、心の表面では「仲間だ」と思って、思い込ませようとしていたけども、どこかで壁を作ってガードしていたのが突然破れた。「人の輪の中にいる自分」が初めて見えた。そのことで普段常に心の片隅に孤独感を住まわせていることが逆によくわかった。それにつかまっているから、現在を生きていない。生きられない。今、今、今、過去はない。
●2001年6月15日
「水輪にいることの意味、共同生活をしている意味」
もう一度この水輪にいることの意味、共同生活をしている意味をよく考えてみる。ここでは本当に人が支え合って全体として一つを生きているから、自分=全体。支えられ、支えてなりたっているから、とっても助けられている。そのことを忘れてはいけないなと思った。当番なのに忙しいからと言って自らの役目を他人に(特にみさ子さんに)押しつけて来てしまったことは大変傲慢で申し訳なかったなーと思った。知らず知らず「急ぎの仕事だ」「忙しい」と言って、周囲と協調することを忘れて自分勝手になってしまっていたことに気づいた。というのもこの間からちゃんと当番の仕事をやるようになって、もともとそんなに気づく方ではないにしても、以前より格段にキャッチする力がついているはずなのに!?。何でこうなったのかなと思って、ようするに「自分の水輪の役割としての(総務の)仕事」にフォーカスしすぎて、日常生活のためにみんなで支え合って生き合っている仕事(ごはん、掃除、洗濯、気遣い、思いやり)を自ら切り捨てていた。音がきこえても「自分には関係ない。」「誰かがやってくれるからいいや。それより仕事、仕事。」と思ってしまい注意を向けることすらしなかったりした。何という愚行だろうか。他からの発信音があっての総務の仕事なのに。生きていく上で大切でないことなど何一つないのに優劣をつけていい加減にしていた。今後このことは肝に銘じて忘れないように。感謝と敬意を持って人に接することができますように。
林 寿美(水輪スタッフ)
●2001年5月5日
「主観をはさまない思考」
今日みえこちゃんの動きが遅いという話の中で、何かが起こってすぐに動くのではなくて考えているんだと思った時に、急にワーク&スタディや坐禅の中でT今ここ自己UとかT瞬間を生きるUとかTなりきるUとか言われてきたことの意味が、腑に落ちてわかった気がした。考えることをTなりきってU行っているときと、主観をはさんだ考えにまきこまれることとは本人が自覚できるかどーかも含めて、えらい違いなのだ。というより、なりきっているときに浮かぶ思考と、主観的なものや自分の好きとか嫌いとかいいとか悪いとかの判断や思いがかぶさった思考とはまるっきり違うし、ワーク&スタディでTなりきることUを一瞬一瞬つみ重ねていくことで、主観をはさまない思考をする訓練をしてきたのだとわかった。これはすごい発見だと思う。
●2001年5月11日
「一瞬の方向転換」
今日完成も近いと思われた料金表の大幅な訂正が入る。一瞬Tこの段に来てなぜ?Uとクラクラしつつも、みどりさんの意向をどう処理してパンフレットやチラシ類の整合性と目的に合わせたまとめ方ができるだろうかと、自分なりに考えていた方向性の修正を試みる。水輪がやろうとしているグローバルなことを目的に応じてポイントを絞ってまとめていきたいという点で、あれもこれもと欲ばってまん然としてしまうのを避けたいと思ってまとめて来た自分なりのイメージを、みどりさんから言われ一瞬にして方向転換するのは、Tせっかくここまで来たのにUという感情が出てくる為、切り換えが容易ではない。さすがにTいかに自分自身を修められるかUが大事だと日頃みどりさんから言われていることが頭をよぎった。で、T切り換えてイメージを組み立てなおさねばUと思いながらみどりさんと打ち合わせしていくうちに、既に作ったものや修正したものの使い方に納得できてひたすら修正に入る。このひたすらと思える自分がうれしかった。新しい方向性が見えてしまえば、あとはそれまでに基礎ができていた分、一から作るよりは早かった。
●2001年5月20日
「いずれはわかる。人は変わる。」
夕食後にMeeting。研さんとみどりさんの話やスタッフからの話など、はじめはバラバラとして(といっても根っこの部分は同じと思った)いた感じのものがまとまっていくのはおもしろい。これが無秩序という混沌から秩序が生み出されるプロセスなのだ。人は幸せになりたくて富を得ようと思ったり、健康を求めたりするのだろうけど、物質的なことだけで満足できる動物ではないようだし、精神的なこととか、社会的に役に立てたこととかでより満ち足りた状態になれるのだということを意識にインプットして、体験を大きなことであれ小さなことであれ積み重ねていけば、より幸せな人生が送れるのだろうし、その為に例えば業務的なところで考えると、日々一瞬一瞬どれだけ精一杯まごころをもって行えるか、本物と思えるものやサービスを創り出せるか、ということを重ねることが、悔いのない充足感(幸せ感)のある生活を送る為に大切なことのように思えた。家庭のことも、また職業が何であろうが同じことで、ただ、人というのはすぐにあきたり、目先のことにとらわれたりしてしまうから、常に基本的なことや方向性をインプットしないといけないということだ。リーダー役の人はそれを相手がわかろうがわかるまいが「いずれはわかる。人は変わる。」と信じて続けなければいけないし、知らないうちにブレたりする自分を自分でチューニングしなければいけないのだと思った。そして、それが喜びだと思えるようになれば最高だ。
●2001年5月21日
「さおりちゃん。。。」早穂理ちゃんはいつも虚空を見ている。いつも虚空を見て、現実に起こっていることに対して、いいとか悪いとか判断はしない。多分、おなかがすいたとか、頭が痛いとかあるのだろうけれど、そのことで苦しんだりしない。それが今この瞬間を生きているということだろう。早穂理ちゃんには過去も未来もない。私は、そんな風にこの一瞬を生きて虚空を見る早穂理ちゃんを見て、“今ここ自己”ということの意味や、“虚空を見る…宇宙とつながる、一体になる”ということについて考えてきた。最近少しわかってきたけれど、もっとわかるようになりたい。
矢野 みさ子(水輪スタッフ)
●2001年4月14日
「いい癖を持つ自分と悪い癖を持つ自分を見つめる」とにかく、この間の私の意識状態は、長年ためてきた垢を落とす作業であり、禊ぎでした。正直、苦しかったです。とは言え、それも一部分にすぎず、まだ知らない自分、見たくない自分と対することが出てくると思います。でもそれが自己を見つめるということなのでしょうか。いい癖を持つ自分と悪い癖を持つ自分を注意深く見つめていると、さらに先が見えてくるような気がした。
●2001年5月9日
「今は出来なくても未来は出来ている私がいる」今日は研さんから厨房での準備、組立等のことで沢山注意を受けた。でも、前と違うのは、ムッとしている自分をもう一人の自分が見ていること。そして又、ムッとしている自分を見つけ反省。確実に進歩しているのだと感じた。だから今は出来なくても未来は出来ている私がいる。そう思えるようになった。
●2001年6月1日
「あーだこーだとかムッとしたりとか、なやんだりとかしているのは嘘の、本当でない自分なんだ」今日、フッと意識に入ってきたことは、「仏性とかダイヤモンドの原石だとか言い方は色々だけど、それって本当の自分で、あーだこーだとかムッとしたりとか、なやんだりとかしているのは嘘の、本当でない自分なんだ」ということでした。と、思ったらみどりさん・研さんへ「ありがとうございます」と感謝の言葉を言いたくなった。今度は本当でない自分に巻き込まれず、本当の自分に帰れるよう座禅や呼吸法、ワーク&スタディetc.で自分を鍛えていくだけなのだと、改めて感じました。ありがとうございました。はじめて自分を成長させてくれている他の人にも“ありがとうございます”がでてきました。
●2001年6月11日
「みえこちゃんについて…ある部分は自分の問題でもある」みえこちゃんについてのミーティング。自分を棚に上げて言いました。ある部分は自分の問題でもあります。言っていて、出来ていない自分がはずかしくもありましたが、反省しつつ言いました。そして、彼女と共に皆と共に成長していきたいです。
●2001年6月14日
「まだ良い子でいようとする自分がいる」今日は、皆のワークシートの入力作業をした。改めて人のワークシートを読んで、自分のそれと比較する。まだ良い子でいようとする自分がいる感じがした。私にはまだまだ悪い、嫌な自分がいるのにそれをだせないと思う。かといって嘘を書いては決してない。ただ、通信などに載せることを考えて、そういう部分を(無意識に)隠している自分がいたのだと思う。でも考えてみれば、そういう自分を提供できることが、自分の執着から離れ、公を開いていくことになるのでしょう。
佐藤 理恵(ワーク&スタディ実習生)
●2001年5月14日
「普通の日」自分の緊張が緩んでいるのがわかった。忙しい時や緊張しているとき、大事の前などは、わりと失敗は少ないが物事が終えたあと、なんでもないときに油断してかえって失敗する、それは祖父にもさんざん言われたことだけれども、本当にその通りだと思った。
料理でも、セミナーの時や20人分作らなければいけない!と思っているときよりも、2人分だけで何でもない今日が時間がかかった。何もない普通の日こそ気をつけなくてはいけない。そのことに思い当たって、学びと気づきにつながったと感じます。
●2001年5月18日
「できぬ我慢 するが我慢」今日は、とくに緑や木や草、太陽などが新鮮に見えた。午前中は自分としてはてきぱき動いていて、動作は早くなるよう気をつけた。が、無駄な動きもあった。
午後はお客様が来ていた。お客様の話を聞きながら、やはり座禅を組むことを毎日やることが、とても重要なのだと感じた。
できぬ我慢 するが我慢
●2001年5月27日
「26年の月日」今日、早穂理ちゃんとみどりさんが一緒になって、よりかかりあって居間にいるのを見て、いいなぁと思った。早穂理ちゃんもすごくいい顔をしていた。
娘が母親に甘えていて、なにげない普通の光景だけれど、その26年の月日がその後ろにあると思うと、ものすごく大切なものに思えた。
●2001年6月1日
「自分を映す鏡」きのう考えたことだけれど、「私は少しは成長したのかもな」と思った。やはり他の人がいると、自分が見えてくることがわかった。他人は自分を映す鏡だなぁ。
●2001年6月2日
「早穂理庵の台所」今日は久しぶりに母屋での朝食をとった。ちゃのまるさんを中心にしてみんなでキュウキュウな所で食べて、やっぱりこれが一番いいなと感じた。スキンシップのできる早穂理庵の台所はいい。
●2001年6月3日
「さおりちゃん…福祉の原点」さおりちゃんは、しゃべれない。
いくら痛い所があっても、水をのみたくても、「お水をちょうだい。」と言えない。
それは、とってもがまんのいる事だと思う。だから、周りもよっぽどさおりちゃんに注意していないと何を求めているか、気づけなくなってしまう。気をつけよう。
こんな気持ちから、福祉の原点が始まるような気がする。
●2001年6月10日
T発菩提心U今日は、こころの探求最終日でした。昨日、宮島先生に質問できるお時間もいただけて、夜の講義もお聞きすることができて、とてもすばらしくうれしい日でしたが、質問し足りないことや先生にお聞きしたいことがいろいろと出てきて、もっと知りたいという気持ちになりました。
しかし、講義の中で先生が言われていたT発菩提心Uということ、この中に様々なヒントがあって、この言葉の理解を深くすることができたら、だんだんと見えてくるものもあるだろうか、と感じた。みどりさんのよく言われる“発(活)私開公”にもつながるのだろう。般若心経のなかにもT菩提薩たUという言葉が出て来るし、意味を本当に理解できるようになりたい。なる。
きょうからも、また新たに、先を見つつT今Uを真剣に積みかさねていきたい。
Y.R.(水輪アシスタント・スタッフ)
●2001年5月12日
「人と向き合うこと」今日初めて、対座しての瞑想を行ったところ、様々なパターンが出てきました。始める前に聞いた2つのポイント(「相手の目を見ながら、微笑みを浮かべ、まわり全体も視野に入れる」「相手・人にまきこまれない」は、非常にむずかしかったです。
45分間の中で私のパターンはいくつかの段階を経ました。まずは「目の見方が間違っていないか」「眼球がさまよってしまっているのではないか」という心配。その次に対面のりえちゃんの目と呼吸と自分のそれとを比較し「自分の方ができていない」という劣等感。そして「りえちゃんより静かに長く息を吐こう」とする対抗心。これらの推移で半ばまできていたと思います。次に理恵ちゃんが居眠り状態になりつつあるのをみて「起こすべきか、起こさぬべきか」やきもきし、相手が緩んだら最後になんとか数息観ができるようになりました。
人と向き合うことで、通常の瞑想以上に自分のパターンが顕著にあらわれたように思います。そして、それを振り払い真に落ち着くということは実にむずかしいことだと痛感しました。
ただ、悪いパターンが出てきたことに気づいただけではなく、自分の良い面にも気づけたように思います。各段階で、もう一人の自分が客観的に自分を見ている状態で「こういうパターンが今でてきているなぁ」とつかめ、呼吸に戻ろうと意識することはできました。また、自分が緩めば相手も緩む、相手が緩めば自分も緩む、ということにも気づきました。
呼吸も相変わらず「浅い、つまっている」という思いが出てきてしまいましたが、そんな時「呼吸による癒し」の中のメッセージを思い出し「もし呼吸が浅く、心身がおちつかないなら、きっとそうある必要があるのです。そのあいだはそうさせておきなさい。ただそれをじっと見ているのです。」「呼吸はいつもある特定なあり方をしてなければならないなどと誰も言っていない。自分の瞑想にがっかりしたなら、そこには何かで獲得しようという考えがひそんでいる可能性が高い。それを見つめて手放しなさい。」
これまでとは違った状態で呼吸に取り組むことができました。そのおかげか最後のあたりは最初よりおだやかな呼吸になった気がします。「呼吸を見る」ことが少しできたのでしょうか?
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