ワーキングスタディー体験記
M.Sさん みどり先生、久保先生、スタッフの方々や研修生、実習生の方々、どうもありがとうございました。最初ワーキングスタディを申し込ませていただいたときは、自然の中で癒されたい、だとか気晴らしができればいい、と思っていたんですが、たったの3泊4日なのにそれ以上の大切なことを学ばせて頂きました。 今回の収穫の中で一番大きかったことは“働く”ということがどういうことなのか分かったことです。私は依然Mで働いていたんですが、お客さんがいないときは話しながら仕事をしていたりしたんですが、”働く“というのはそのことだけに集中して時間を見つけて自分のできることをやっていくことだ、ということがわかりました。東京に帰っても学校でもみんなが話してる間にしっかり勉強をして、電車に乗っているときもできることを探して、お家に帰ってもお掃除をしっかりやります。 あとここのお味噌汁がすっごくおいしかったです。 最初カニの出汁なのかと思ったら煮干しだったんですね。自分でも出汁のとり方を調べてやってみます。 今日帰ってしまうのがちょっとさみしいですが、ここで学んだことは、世の中に出てすごく役立つことばかりだと思います。ここで学んだことを外の世界で実演するということは、人に流されたり、誘惑があったりするかもしれませんが、本当に貴重な体験をたくさんさせて頂いたので実践していきたいです。 今回のワーキングスタディで掃除をしたり、枝を拾ったり、田んぼに行ったり、封書を作ったり色々なことをさせて頂きました。 今夜夕食を食べるときから、感謝して食べさせていただい気体です。田んぼに行かせていただいて、お米が口に入るまでって本当に骨の折れる作業だってわかったので、わかっただけで私の中ではすごく大きいです。 本当に貴重な体験をたくさんさせて頂いて、ありがとうございました。 また是非来させていただきたいです。本当に本当にありがとうございました。
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「水輪の本当のすばらしさは、ワーキングスタディじゃないと分からない」
吉田 静さん(女性/岐阜県/ライター)
「水輪の本当のすばらしさは、ワーキングスタディじゃないと分からない」。この春、アトピー治療を兼ねて、一週間のワーキングスタディに参加した夫が帰宅するなり私に言ったセリフだ。
その後、夫の勧めもあり、10月1日から7日までの一週間、同じワーキングスタディに参加することとなった。が、出発当日まで自分の気持ちがはっきりしない状態だった。夫のように目的があるわけでもなく、ただなんとなく行くだけで、私の中に何か変化が起こるのか、気づきがあるのだろうか? もっと精神的に苦しくなったり、自分のことを考えたりしたくなった時に行けばいいんじゃないのかな? そう思って、長野に向かうのが少し心もとない、言い様もない不安な感じだった。ただ、みどり先生や研先生、美恵子さんやみさ子さんをはじめとしたスタッフの皆さんに会えるのだけは楽しみで、その気持ちが私を水輪へ向かわせてくれたように思う。 3年前に初めて水輪を訪ねた時は、本当に藁をもすがる気持ちだった。実母との関係がまったくうまくいかず、外出や電話などの外界との接触が怖くて部屋に閉じこもっているような状態で、人のことが信じられない、人と関わりたくない、悪いのはみんな自分のせいなんだ、そんな風に考えていた私。そんな私のことをひと目で安心させてくれたみどり先生。それまで誰にも話したことのなかった母との不仲、弟の自殺、自分の気持ちなどをじっと聞いた上で、「静ちゃんは悪くない、間違ってないよ」と私をまっすぐ見つめて認めてくれた。それがどれだけ嬉しかったか。大袈裟でなく、この言葉だけで自分が救われた。表情がやわらかくなったね、と人から言われるようになったのも、この後からだ。以降も夫婦で2度ほど訪れたが、ここ2〜3年の間はすっかり遠ざかっていた。 定期的に届く通信を見ては、イベントに参加しようかな? と思うことはあっても、ワーキングスタディを自分が受けることなどまったく考えたこともなかった。私は、もう水輪のすばらしさも知っているし、苦しくなったら、またみどり先生に会いに行けば助けてもらえる。そう思っていた。だからなぜ、夫が執拗にワークにこだわり、勧めるのかが、実際のところ理解できなかった。そうして、ただ会いたい気持ちだけでワークに参加した私に、その価値はあったのかと聞かれれば、間違いなくあった、と答えられる。水輪の本質は、ワークに取り組み、スタッフの人たちと共に生活して初めて実感できるものだと。 ワークに参加する前の私は、常に他人を意識し、人の言葉ひとつで心乱され、不満を抱えたり、文句を言ったり、やる気を簡単に失ったり、自分を責めたり、否定したりして、さらに何かに集中することができない状態だった。そもそもこれらのことも、今だから自覚できるものの、その当時は自分で気付くこともなく、嫌な事が目の前に起こるたびに、その都度、誰かのせいにしては、自分は悪くないのに、と思っていた。無論、そんな気持ちは夫にぶちまけるだけで、対外的には、いつもニコニコした静さん、を装っている状態。水輪に到着して、2日目までは、正直、その延長線上で生活していた。スタッフの人に迷惑をかけないように、よく思われるように、と。何か不満に思っても、自分が我慢すればいい、とか、言って気まずくなりたくない、と無意識の内に「いい人、静」を作るのに必死になっていた。それに気付きはじめたのは、3日目くらいからと思う。 毎朝5時半に起床して、ひと作業し、食事を作り、食べ片付け、また作業に戻り、食事を作り一日の最後を座禅で終える。この流れを仕事、としてではなく、日常という意識で過ごしはじめた時、その中に、いかに多くの大切なことが隠されているのかが、少しずつ見えてくるようになった。水輪では、誰も装ったりしていない。皆感じたことを話して、ひとりひとりがそれをしっかり受け取って、思うことを伝えあっている。ここでは、装う必要なんてないんだ。そう気がついたのは、食事の後、みどり先生が話してくださった、この話を聞いてからだ。 「物事をいいとか悪いとか他と比較して二元的にとらえるんじゃなくて、もともとは一つから生じてくると考えれば、苦しむことはなくなる。人を羨んだり、妬んだり、憎んだりする、その感情はすべて自分の内から生まれるもの。他人が自分に与えるものじゃない。自分対他人と考えるんじゃなくて、自分対、それ以外のまわりすべてと考える」それを受けて美恵子さんが「私たちが毎日していることは、日常で、ワークは日常の一部。一般的な仕事は、『仕事の時間』対『自分の時間(=休み)』となるけれど、これは二元的。日常は生きている限り止まることはない」。 そう、私は、自分以外の存在をすべて二元的に見ていた。ワークは仕事だし、仕事をキチンとやって、周りに認めてもらいたい、よく思われたい。「認められること」このことに、自分の気持ちが支配されていた。それが、誰か、ではなく、自分に自分を対峙させることを意識するようになってから、自分の感情を相手に伝えることが怖くなくなり、仕事が自分の日常になっていったように思う。掃除をしている時は、掃除をする自分に、食事を作る時は食事を作る自分に。他の誰かではなく、自分に意識を向け集中することで、自分の目の前のことに集中できるようになってくる。たとえ短い時間であっても、集中している時の自分は、何にも捉われず、支配されることもなく悩むこともなく、自由になれる。体は何かをしていても、心を自由にすることができる。 朝から晩まで休むことなく体を動かしている水輪での生活よりも、自分の好きな時間に起き、やりたいことをしていたはずの普段の私の生活のほうが、はるかに心が不自由だった。自分の心に苦しめられて、他人はおろか自分を嫌いになっていた。でも、それが分からず、自分は恵まれない不幸な人間だと思っていた。それが一週間のワークではっきりと理解できた。自分の内から出る色々な感情に苛まれて、自分自身に集中できない。言い換えれば、自分の言うこと成すことすべてに気持ちがこもっていないということ。気持ちがそこにないというのは、心が、魂がないようなもので、何をしてもつまらなく、くだらなく感じ、自分が生きていること、存在自体が疎ましくすら感じてしまう。みんなが心を開きあっている水輪でも、人と人がそこに存在する限り、様々なトラブルが起きてくる。けれど、その事をうやむやにすることなく皆で考え、シェアすることで、ひとつひとつ消化して、お互いが日々成長を続けている。私は、その毎日の中の僅か一週間をともに過ごしたにすぎない。けれど、毎日を懸命にキチンと生活することの大切さと、そこからしか得ることのできないものに気付くことができたように思う。 懸命に生きるということは、自分に集中すること。自分に集中すると、心が自由になる。自分に向かい合うことで、まわりの人、物事が見えるようになってくる。まだまだ感情に左右され、心を乱すことばかりだけれど、だからといって、自分を責めることは随分少なくなった。ひとつひとつに集中して生活した水輪での一週間が、今の私を励まし支えていてくれる。研先生、みどり先生、スタッフの皆さんの存在もそう。そして何より、早穂理ちゃんに出会えたこと。彼女の生きる姿が本当に勇気を与えてくれる。早穂理ちゃんは、自分を飾ったり、自分に集中することを止めたりしない。まっすぐ見つめて、自分の気持ちを全身の力を込め相手に伝えてくる。体は思うように動かせなくても、早穂理ちゃんの何にも汚されないピュアな魂は、限りなく自由だ。一緒に食事をしていると、自分の魂も曇りがなくなっていくようだった。「ちゃのまる」という早穂理ちゃんの愛称は、本当に水輪そのものだと思う。毎日、それぞれが持ち場での作業を担当しながらも、食事の時は顔をそろえて輪を作り、そこで気持ちを通いあわせる。とても自然で、シンプルな生活。 私の日常に帰ってから、ちょうど一か月が過ぎた。水輪のような日常を送ることはできなくても、心はそうありたいと思い、今も座禅を続けている。座禅を通じて水輪で芽生えた集中力を絶やすことのないように。それ以外、表面的には毎日の生活が変化したわけではない。けれど、ワーキングスタディの時のように、毎日を懸命に、日常をキチンと生きるようにという気持ちで過ごすようになった。もちろん、前述したように、心乱れて、そんな気持ちを見失いそうになる時も頻繁にあるけれど、水輪での私の一週間は事実であり、今日も水輪では、あの生活が営まれている、それを知った今は、ゆっくりではあるけれど、自分の心を取り戻す、ニュートラルな状態に戻すことができる。以前、私を悩ませていた事どもも、あまり気にならなくなり、母に対しても一呼吸置いた状態を感じられる時がある。そして、そんな毎日の積み重ねが本当にかけがえのないものとして大切に思うことができるようになった。水輪を訪れた時の温かさや心地よさ、すばらしさは、それを作りだすワーキングスタディを行っているスタッフの心にあり、それが水輪の本質だと知った。そして、その本質にふれるには自らもワーキングスタディに参加しないと不可能であることも。 ワーキングスタディに参加する目的は様々だと思う。私は、はっきりしない状態だったけれど、結果、私自身が自分の心の不透明さに気づくことに繋がった。本当にすばらしい体験、気づきをたくさん得ることができた一週間だった。水輪のみなさんはもちろん、疑心暗鬼だった私にワーキングスタディを勧めてくれた夫にも、感謝の気持ちでいっぱいです。皆さん本当にありがとうございました。毎日、水輪のことを思い出して生活しています。次回、皆さんにお会いする時には、1ミリでも成長した姿をみせたいです。 |
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